![]() 暗闇は光の右手(めて)。 二つはひとつ、生と死と、 ともに横たわり、 さながらにケメルの伴侶、 さながらに合わせし双手、 さながらに因-果のごと。 アーシュラ・K・ル・グィンは二元論の作家だと思うのだが、それが最も現れているのが『闇の左手』(ハヤカワ文庫SF)に出てくるこの詩。光と闇、それは決して敵対するものではなく、二つで一つ。対比させることによって、双方が際立つ。
ル・グィンの作品には、人と人が出会って、時には誤解しあいながらもわかり合っていく過程を描いたものが多いと感じる。『ゲド戦記』2巻のゲドとアルハ。5巻のレバンネンとセセラク。『言の葉の樹』(感想)のサティとヤラ。『闇の左手』のゲンリー・アイとエストラーベン。
二人の人間が出会うだけで、そこには「あなた」と「私」という二元が存在する。二人が全く同じ価値観を持っている筈はなく、そこにせめぎ合いが生ずる。ゲドとアルハ、レバンネンとセセラクのように異なる文化圏の人間であれば、価値観の相違はさらに大きくなるだろう。では、サティとヤラのように、異なる惑星の人間であれば? ゲンリー・アイとエストラーベンのように、同じくハイン人を祖に持つとはいえ、地球人の男性と、両性具有のゲセン人であれば? 男と女、我々がごく当然と考えている事実すら、ゲセン人には理解できない。 全く異なる価値観を持つ者同士が出会うということ。それを描く上で、“極端な状況”を、SFは可能にするのではないかな、と思う。 PR |
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