![]() あり過ぎて十首に絞るのが難しいが、あえて絞ることで、自分の好みの優先順位が見えてくる。 まてんろう 海をわたってわたしたち殖えていくのよ胞子みたいに 悲しいというのはいいね、濡れながら、傘を買わなくてもかまわない (愛されるために生まれた)(そうだった)洗濯槽にまわる泡たち 白かった猫の話にたれか泣く 泣くことは歌うことだったから もうみんなとおくへ行ってしまったよ死のことばかり考えていて とざすべきまぶたいちまいもたぬ空 ころされるのはこわいだろうか かるい紙きれいな紙を折りましょう折り目を二度と消せないのなら 飛ぶ紙のように鳥たちわたしたちわすれつづけることが復讐 朝露のこわれるまでをくるしみは嘘がつけないから見ていたい この人といつか別れる そらみみはいつも子どもの声をしている 昨年の初読時は「飛ぶ紙の」が一番好きだったが、今は「もうみんな」が好きだ。読む時によって、選ぶ十首が変わるかもしれない。今回は“ひらがな表記が印象的な歌”が残った気がする。
『パン屋のパンセ』も死が常在する歌集で、読みながら『薄い街』を連想せずにいられなかったが、死の表れ方が何か違う、とは思っていた。再読して、差を理解する。
『パン屋のパンセ』に感じる死は、70~80代の歌人が“いずれ必ず自分に訪れるもの”として詠う、主観的な死。 しかし本書の死は、人間だろうと動植物だろうと等しく透けて見える、客観的な死。「わたし」と詠まれた歌でも一人称ではなく、「わたし」と詠う人を外部から観察しているように思える。本の白く硬質な装丁に影響されている可能性もあるが、人の形をしたビスクドールを撫でているみたいで、生身の温かさが感じられない。 『世界が海におおわれるまで』の解説で井辻朱美氏が、佐藤氏の視点の不思議さについて述べていた。 〈出てくる情景や内容は、作者の身体をなかにふくんでいる空間なのか、それとも窓かスクリーンなのか。身体をふくんだ空間である場合、視点はやはりその身体の目の位置にあるのか、それとも上のほうから、自分の身体をも見おろしているのか。またスクリーンや絵である場合、それは作者の目を源とする遠近法であるのか、あるいは中国の山水画みたいに焦点がどこにあるのかわからないパノラマ的空間であるのか。〉 今回初めて、その不思議さを実感した。 本書は、他者の著作からの引用や、それを踏まえた歌が多い。中でも気になったのが、下記。 流れよ血、流れよ涙、胸さきに懐中電灯(フラッシュライト)突きつけながら うごかない卵ひとつをのこす野に冷たい方程式を思えり どの人が夫でもよくなってくる地球の長い長い午後です トム・ゴドウィン他『冷たい方程式』も、ブライアン・W・オールディス『地球の長い午後』も、有名SFだけど読んでいないよ! 読まなきゃ。 「流れよ血」は、フィリップ・K・ディック『流れよわが涙、と警官は言った』ではなく、その元ネタのジョン・ダウランドの歌曲を踏まえている。それはさておき、ディックも読まなきゃ。 左川ちかの詩集とか、稲垣足穂の『薄い街』とか、題材となった作品にも関心が湧く歌集だった。しかし、左川ちか入手し辛いよ……。 PR |
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