![]() また、前日に押井守監督による映画を鑑賞した。という前提で、『スカイ・クロラ』(中公文庫)を読んだ。思ったことは、4点。 1。「処女作には著者の全てがある」というのは本当だなぁ、と実感する。読んでいて、『F』の登場人物・真賀田四季や犀川創平の台詞、思想を思い出さずにはいられない。ただ森氏の場合、執筆順での処女作は『冷たい密室』で、『F』は4作目だそうだが(汗)。 1とリンクするが、2。真賀田四季は、キルドレだ。犀川も、そうだろう。 但し、『スカイ・クロラ』のキルドレたちは、“自分がキルドレであること”に思い悩む。四季ならば悩まないだろう。自分が、周囲の人間とは別種の生物であることを、当然と見做すに違いない。犀川は、多少、悩むかな。 とにかく、『スカイ・クロラ』を読むと、むしろ『F』について語りたくなるのだ。続く。
(2008.9.30追記)
3。これは映画の感想にもなってしまうが、森氏よりも押井監督のほうが「人にやさしい」と思った。優と易、両方の意味で。「人に優しい」という言葉は、『F』の中で使われていた表現だが。 易のほう。『F』も読まず、映画も観ずに『スカイ・クロラ』を読んだら、恐らくキルドレたちの心理状態を理解できなかったと思う(汗)。その点、映画は非常に解りやすく作ってあった。 優のほう。映画と本の結末の描き方に、神林長平『戦闘妖精・雪風〈改〉』、続編『グッドラック 戦闘妖精・雪風』の読後感の違いを思い出した。『雪風』のラストに比べると、『グッドラック』は、人間にとって救いがある。 キルドレたちの心理状態を“理解”できたとしても、共感できるか否かは別問題だ。本は、キルドレであるカンナミの一人称で描写され、全てがキルドレとしての視点に貫かれている。ドライというか、カンナミの目を通した世界と、読んでいる私の間にガラスの壁が挟まっているような感覚。全て見えているけれど、触れられない。 一方、映画はウェットだった。恐らく、人間である第三者(監督)の目で、外部から彼らを描いているがために、観客も人間的な感情を投影しやすいのではないか。 映画のラストには救いがあるが、本のラストはどうだろう? カンナミとクサナギにとっては、これが救いなのだろう。続く。 (2008.10.1追記) 以下、映画も本も内容を知らない方は、ネタバレ注意。 4。本文中に、キルドレの明確な定義は書かれていない。カンナミの独白、クサナギやミツヤの台詞はあくまで彼らの認識であり、正しいという保証はないが、それらを総合してみる。 遺伝子制御剤の開発途中で突然生まれた、年をとらない子供。戦死しない限り死なないとも噂される。記憶が曖昧で、感情も希薄。戦闘機パイロットになるか、聖職者になるかしか選べない。 〈子供のままで死んでいくことは、大人になってから老いて死ぬことと、どこがどう違うのだろう? とにかく、比べようがない、というのが答だ。誰にも、それを比べることはできない。両方を一人で体験することは不可能だ。〉 キルドレと人間の両方を、一人で体験することはできない。カンナミは比較的、割り切って生きている。 クサナギは、キルドレであることは受け入れ、その上で“人並みでありたい”と願う。 「人には、年をとって死んでいくという自然な流れがあって、それは誰にも変えられないもの。それが運命」 それが、自分たちにはない。“人並み”に自分の運命に干渉するために死にたい、と言う。クサナギの思想は、現状がいつまでも続く、ということに対する想像力の結果だろう。現役パイロットでない彼女には、基本的に戦死する機会はないのだから。 一方ミツヤは、自分がキルドレであると認めたがらず、泣いて訴える。 「どことなく、何もかもが、断片的な感じがするの。連続した思い出として認識できない。自分が経験したことだっていう確証がない。手応えが全然ないの」 生まれつきキルドレならば、“連続した思い出”自体を経験したことがないのでは? 彼女が何故、知らない筈のものの欠落を認識できるのかには、興味がある。 ミツヤは自分に過去がないことに怯え、クサナギは未来が永遠に続くことに絶望している。裏返せば、“過去があること”“未来に終わりがあること”は、(カンナミはともかく)彼らから見て、人間の長所なのだ。以上。 PR |
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