![]() 東条でなく、もちろん天皇でもなく、山下なのだ。〉 東條英機は知っていても、山下奉文を知らない日本人は多いのではないか。私は、そういう名前の軍人がいることを知っていた程度で、奉文を“ともゆき”と読むことも初めて知った。 母がブックオフで買って送ってきた、福田和也『山下奉文 昭和の悲劇』(文春文庫)。2004年、2005年、2008年に雑誌掲載された内容を、2008年4月に文庫化したものである。……ブックオフに売られるの、早いぞ(汗)。 陸軍でエリートコースを歩んでいた山下だが、二・二六事件の決起将校たちに自決を勧めた際、彼らが侍従武官の差遣を願い出たのを宮中に取り次ぎ、天皇の激怒を買う。 (この一件は、高校時代に読んだ笠原和夫『2/26』で、記憶がある。取り次いだ軍幹部の名前は覚えていないが。) その後、外地を転々とさせられるも、第二次大戦開戦直後、司令官としてシンガポールを陥落させ、一躍英雄となる。降伏交渉では、英軍のパーシバル中将に「イエスかノウか」と無条件降伏を迫ったと伝えられる。 (「イエスかノウか」の場面、漫画のワンシーンとして記憶があるぞ。多分、小中学生の頃に読んだ、『少年少女日本の歴史』(小学館)だ。) ……何度か山下という人物には触れているのに、全く結びついていなかったと見える。続く。
(2008.11.12追記)
シンガポール陥落が、世界にとってどれほど大事件だったのかを、初めて理解した。 それは、〈旅順以上の大要塞で、五十万の大軍をもってしても数年間は落ちないだろうといわれた植民地帝国の要衝を、一気呵成に攻め落とした。大航海時代以来の、ヨーロッパのアジア支配に終止符を打った、まさしく世界史的な偉業〉だった。山下は、英軍のみならず「白人」を打ち破った。だからこそ、後にフィリピンで山下が米軍に降伏した際、わざわざマッカーサーはパーシバルを同席させた。米陸軍士官学校には、ヒトラーやムッソリーニと山下の写真が並べられているのだ。 日本軍入城後に、シンガポールで数千人の華僑が虐殺されたことも、知らなかった。 ……こんなところにも出てきた、辻政信(汗)。常石敬一『消えた細菌戦部隊 関東軍第七三一部隊』(感想)で名前を覚えて以降、よく遭遇する。辻ら参謀たちが発案し、司令官の山下が認可した作戦を心ならずも実行した憲兵隊。河村参郎警備司令官は戦犯として裁かれ、死刑判決を受ける。裁判後、無期となった部下に「若い諸君が助かってよかった」と会釈したという。河村の遺稿集『十三階段を上る』の前書きを、潜伏して逃亡帰国した辻が書くのは、どうも釈然としない(汗)。 (2008.11.13追記) シンガポールで大戦果を挙げるも軍中央に報いられることはなく、満州転任の後フィリピン・マニラへ。米軍を一兵でも多くルソン島に貼りつけておくため、ひたすら退却、持久に徹した。そして日本のポツダム宣言受諾後、降伏。 (この本に書いてあったわけではないが、フィリピンのいわゆる“山下財宝”の山下だったんだね!) 戦犯として死刑判決を受け、ロス・バニョスにて絞首刑。フィリピンでは、マンゴの木に吊るすのだそうだ。専用の絞首台でなく“マンゴの木”というところが、非常に侘しい。 元部下は、捕虜収容所での山下の〈君達が内地に上陸した時〝お母さんの膝の上で抱かれてオッパイを飲んでいる赤ちゃんを大事に立派な日本人になるよう育てゝ欲しい。その赤ちゃんが、きっと将来日本を復興させて呉れると思う。〟〉という言葉を伝えて、こう記す。 〈現在、我が国の総理大臣、閣僚、国会議員及び各界のトップの人々が該当する年齢ではないでしょうか。山下閣下は恐らく、国家、国民のため身命を賭して職責を完うする人と期待されての最後の希いであったものと拝察しております。〉 ……最近の、定額給付金で迷走する政府与党を見ると、「そっかー、この人たちかー」と思う(汗)。 ロス・バニョスに埋葬された遺骨は、後年、多磨墓地に移された。埼玉県の青葉園にも墓があり、青葉記念館には山下関係の展示が数多いらしい。大宮に行くことがあったら、寄ってみたいかも。以上。 PR |
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